[みどころ | 交通 | 関連情報 | 指定 | 地質学的な意義] みどころ1991年に撮影した飯梨川の河口付近。赤江大橋より下流の現在の河道は江戸時代につくられ ました。そのときの海岸線はおおよそ東赤江大橋付近にありました。現在の河道の東岸には旧河道の跡が残っています。河口の先にみえる薄茶色の2つの小さな塊は1991年2月に現れたマッドランプです。現在は、河床の砂がこのマッドランプがあったところまで延びています。 中国地方の花崗岩の多くは風化作用によって地下数m〜数10mまでは砂状になっており、砂状になった花崗岩はマサ、マサ土などと呼ばれています。花崗岩は本来硬い岩石ですが、マサは人力で崩すことができます。マサを突き崩して流水中に落とし、花崗岩中の磁鉄鉱を選別する方法「かんな流し」が17世紀頃から中国山地で盛んに行われてきました。しかし、花崗岩中に磁鉄鉱は数%しか含まれていませんから、流水に落とされたマサの90%以上は下流に流されました。そのため、かんな流しが行われた河川は下流に多量の砂を急激に運び、洪水などを引き起こしました。 花崗岩地域から流れでる飯梨川でもかんな流しが盛んに行われ、多量の砂が中海に運ばれました。その結果、河口付近は急速に埋め立てられ、海岸線は前進し、デルタがつくられました。新たに作られた土地を利用するため、江戸時代の1840年に「赤江大橋」付近から新しい河道を掘って川の流れを変え、旧河口のデルタは新田に開発されました。赤江大橋から東岸の旧デルタ地域に行きますと、河道の痕は畑地になっており、そこより2〜3m高いところに住宅が並んでいますが、そこは昔の堤防の跡です。 新河道の河口も急激に前進しています。新河口は1992年までの約150年間に約780m前進しました。かんな流しは行われなくなり、上流にダムが作られたりして、上流からの砂の供給は減りましたが、河床にはまだ多くの砂が蓄積されています。東赤江大橋から飯梨川河床面と人家や畑地がある平野とを比べると、河床面の方が高いことが判ります。河口付近に多量の砂が溜まっているため、飯梨川は天井川になっているのです。
アクセス国道9号が飯梨川を渡る赤江大橋東側の道を川沿いに行くと河口に達します. 関連する情報なし 天然記念物などの指定情報なし 地質学的な意義1992年2月に雪解け水は河口に多量の砂を運びました。その砂の重みによって湖底の泥がもちあげられ、河口沖に2つの泥の島ができました。湖底の泥がもちあげられた力学的な機構は陸上の円弧地すべりとおなじです。この2つの島はミシシッピー川河口にしばしば出現するマッドランプと同じものであることが判りました。マッドランプはミシシッピー川以外ではほとんど知られておらず、飯梨川のマッドランプは世界的にも貴重な例です。 なお、この2つの島は7月に水面下に没し、翌年3月に再び水面上に姿を現し、同年9月に再度水没して以後二度と姿を現しませんでした。現在は河口の砂州の下に埋もれているようです。 |